「何者なの?」とよく聞かれます。
京都でコンディショニングサロンをしている人。
呼吸や姿勢を教えている人。
野菜を育てて、魚を釣ってさばいて、和ハーブでお茶やチンキを作って、
毎日バク転している人。
……たしかに、少し不思議な人かもしれません(笑)
でも、そうなったのには理由があります。
それは、気合と根性だけでは立てなくなった時期があったから。
眠れない、呼吸が浅い、力が入らない。
頑張ろうとしても体が応えてくれない。
「心が弱いんじゃなくて、体が悲鳴を上げていたんだ」と気づいた瞬間があったから。
頑張るのをやめたわけじゃなくて、
“頑張る前に整える”という選択肢を知り、その道を選びました。
ここから先は、私がどうやってそこにたどり着いたのか。
体のこと、暮らしのこと、好奇心の話も混ざり合った、
私がそこにたどり着くまでの話を、書いてみようと思います。
器械体操と“整える”という感覚の原点
私と身体の関係は、6歳で始めた器械体操から始まりました。
女子の競技は「床・平均台・段違い平行棒・跳馬」の4つ。
私自身、腰・足首・手首・膝……怪我も多かったです。
痛みと一緒に練習していたと言ってもいいくらい。
それでも続けられたのは、先生の存在が大きかったと思います。
先生は派手な技よりも「基礎の底上げ」を徹底的に大事にする人でした。
当時の子どもだった私は、かっこいい技に憧れていたけれど、なぜか先生の言葉は信じられた。
思えば、あの頃の私はまだ基礎も整っていなくて、ただ好きでやっていただけ。
“技の練習ばかりしても伸びない”
そんな感覚を、当時の私もどこかでわかっていたのかもしれません。
教わったのは、技よりもまず、軸・押す・伸びる・踏み切り・着地などの基礎。
これらが整っていれば、技は自然とできるようになるということ。
難しい技は“特別なもの”ではなく、基礎の延長線上にあるものだという感覚でした。
先生の教えもあって、高難度の技よりも、減点の少ない美しい演技を目指していました。
高難度の技の数で勝負するのではなく、整った身体の使い方で勝負する体操をしていたんです。
実際、難しい技を詰め込まなくても点数は出ます。
減点が少なければ、構成がシンプルでも評価される。
逆に高難度の技をたくさん入れても、着地が乱れたり美しさがなければ点は伸びない。
「難しい技たくさんしてるのに、なんで点数が出ないんだろう」
「技はすごいのに、なんか美しくない」
そんな選手もたくさんいました。
一方で「難しい技をしていないのに、私の方が点が出た」ということもよくあったんです。
試合後に審判の先生から「綺麗な体操をするね」と言われることが何度もありました。
これが結構、かなり、嬉しかった!
つまり勝負の仕方は技の難易度だけじゃない。
“整った基礎の先に技がある”
この価値観の中で育てられた私は
今振り返ると、すでに“整える”という感覚に触れていたのかもしれません。
この感覚こそが、今の私の“整える体づくり”の根っこにあるものです。
気合と根性の限界。体が動かなくなった日
器械体操を引退してからは、専門学校、社会人生活と
「がんばればなんとかなる」「根性で乗り切るもの」
そんな思い込みのまま、走り続けていました。
でもある日、そのやり方ではもう立てなくなったんです。
眠れない。
息が浅くて、呼吸が苦しい。
体が冷えて震えるのに、汗が止まらない。
頭がぼーっとして、立っているだけで眩暈がする。
そして突然、右耳の音がすべて消えました。
診断は突発性難聴。
その後も低音障害型難聴やメニエールの疑いで、耳の不調は長く続きました。
音が歪んだり、自分の声だけ響いたり、静かなのに耳の中だけ騒がしかったり……
“音のある世界”が当たり前ではないことを、そのとき初めて知りました。
さらに髪が丸く抜けていて、円形脱毛症でした。
「痛くもかゆくもないのに、自分の体が壊れていく」
そんな恐怖と無力感を、はっきり覚えています。
文字が読めなくなったり、立ち上がれないほど体に力が入らない日もありました。
病院では「異常なし」「ストレスでしょう」で終わることも多くて
じゃあ、どうすればいいの?という不安だけが残りました。
気づいたんです
体には、気合や根性ではどうにもならない場所があるって。
栄養ドリンクやカフェインで無理やり動かしても、
それは“元気になったふり”をしているだけ。
心も頭も、体の土台が弱っていたら、必ずどこかで限界がきます。
悪いのは「がんばること」じゃない。
“がんばる土台”そのものが崩れているのに、気づかないまま走り続けていたこと。
その現実を認めざるを得ませんでした。
だから私は、“整える”という選択をしました。
トレーニングを増やすことでも、無理な食事制限でもなく。
まずは、呼吸・姿勢・体の使い方といった「土台」を整えることから始めました。
・呼吸を意識して、まず息を吐くところから始める
・反り腰・肩の力みなど“がんばり姿勢”をやめること
・“我慢する食事”ではなく、“整える食べ方”に変えること
・筋トレよりも前に、体の緊張をほどくことを優先する
そうして少しずつ体と向き合ううちに、ふと気づけば
「ちゃんと息ができる」「眠れる」「音が戻る」そんな日が少しずつ増えていきました。
この体験が教えてくれたこと
この気づきが、今の私の発信・レッスンのすべての軸になっています。
・がんばることは悪じゃない。でも、がんばり方は選びなおせる。
・気合で立てないときこそ、整えることが必要になる。
・体が整えば、心も、考え方も、未来も整っていく。
方法じゃなく、仕組みを知りたかった——“整える”との出会い
体が限界を迎えたとき、とにかく学び始めました。
本を読みあさり、セミナーにも行き、
栄養・呼吸・姿勢・自律神経・東洋医学・ダイエットの理論……
興味の赴くままに、体のことを学び続けました。
でもそれは「もっと効くトレーニング方法、ダイエット方法」を探していたのではありません。
知りたかったのは
“人間の体って、そもそもどうなっているの?”
筋トレや食事制限のやり方ではなく、
骨・筋肉・呼吸・神経・ホルモン・内臓……
体の構造そのものを理解したかったんです。
方法じゃなく、構造を学びたかった
ダイエットの資格を取ったときも同じでした。
“痩せる方法”ではなく、
「人はなぜ太るのか」「どうして痩せるのか」
つまり、構造・仕組みを学ぶ講座を選びました。
そこで気づいたのは——
構造を無視して方法だけ変えても、うまくいかない。
体の土台が崩れたままでは、努力も根性も結果につながらない。
実際に、自分の体で確かめていった
私は学んだことをひとつずつ、自分の体で実験しました。
・呼吸を変えると、肩こりも頭の重さも少しずつ変わる
・立ち方・重心の位置を整えると、腰や足の痛みが軽くなる
・食べる量より、“どう食べるか・どう味わうか”で体が変わる
・力を入れるより、力を抜くことのほうが体が安定する瞬間がある
特別な道具も、激しい運動も、禁止ルールもいらない。
「体の仕組みに沿った使い方」だけで、体は変わり始める。
そんな手応えを感じていました。
ここで気づいたんです。「あ、これ、体操と同じだ」と。
器械体操で教わったのも、まったく同じことでした。
派手な技より、まず軸・踏み切り・着地など“基礎”。
それが整っていれば、技はその延長線上に自然とできる。
努力や根性ではなく、整った土台が技を支えてくれる。
“整える体づくり”も、まったく同じでした。
やり方を増やすのではなく、体の土台(構造)を整えることが先。
そこが整えば、筋トレも挑戦も、自然にできるようになる。
だから今、私が伝えたいのは——
「がんばれない人」への体づくりではなく、
“がんばれる土台をつくる整え方”。
方法の前に仕組みを知ること。
気合の前に、体が立てる状態に戻すこと。
それが、私の“整える体づくり”の原点です。
体は限界でも、私は現場に立ち続けていた
体が思うように動かなくなっても、私はトレーナーの仕事を辞めませんでした。
というより「辞める」という選択肢が頭に浮かばなかったんです。
当時は女性専門のパーソナルジムで、毎日お客様と向き合っていました。
「結果を出さなきゃ」「期待に応えなきゃ」
そう思うほど、自分の体調のことは後回しになっていったんです。
指導の現場に立ちながら、自分はどんどんボロボロになっていく——
今振り返れば、矛盾の中で必死に立っていたような気がします。
頑張らせるメソッドへの違和感
私自身が「もっと頑張りましょう!」と声を上げていたわけではありません。
でもジムには「筋トレは重さを上げ続けるもの」「食事はこれが正解、それ以外はNG」
という空気がありました。
もちろん、それで続けられる人もいるし、結果が出る人もいました。
でも「これが正解だから全員やる」という空気には、ずっと違和感がありました。
当時の私は体調不良の真っ只中。
「頑張れば変われる」と言いながら、自分の体はもう頑張れなかった。
そんな中で違和感が大きくなっていきました。
気づいたのは、“弱さ”とか“根性不足”ではなく、もっと単純なこと
「頑張れない人が弱い」わけじゃない。
でも「整えればすべて解決」って話でもない。
大事なのは、人によって合う方法と、合わない方法があるということ。
筋トレも、食事制限も、ヨガも、整体も、整える体づくりも。
どれも間違っていない。正解はひとつじゃない。
ただ
身体の構造や暮らしを無視して“方法だけ”を頑張っても、人は変われないことがある。
人を変えるのはメソッドではなく
その人の体・心・暮らしにフィットした方法なんだと感じるようになりました。
自分が整うほど、指導も変わっていった
呼吸・姿勢・体の使い方、力の抜き方、扱い方。
自分の体で整えることを続けるほど、指導の視点も変わっていきました。
・高重量じゃなくても、低重量で十分「効く体」になる
・お腹を固めるより、呼吸で内圧をつくる方が腰痛が起きにくい
・「力で耐える」より「支える土台を整える」方が、美しく安定して動ける
筋トレかストレッチか、0か100かではなく
“整えてから動く”という指導へ、少しずつシフトしていきました。
お客様の変化が、すべてを決定づけた
半信半疑だったお客様たちも、少しずつ変化を感じ始めました。
・「呼吸しただけなのに、肩が軽い」
・「食事を我慢してないのに、太らなくなってきた」
・「体型だけではなく、顔つきや雰囲気も変わったと言われるようになった」
・「頑張るのをやめたら、逆に続けられるようになりました」
体が整うと、表情も、選ぶ服も、言葉も変わっていく。
その姿を見たとき、私は決めました。
“私は、頑張り方じゃなく、
頑張れる土台を伝える人になろう。”
そして、整えることは「暮らし」へと広がっていった
整えることは、トレーニングだけでは終わりませんでした。
呼吸や姿勢を整えていくうちに
自然と「眠り・食べ方・暮らしのリズム」にも気づくようになりました。
そこから
畑、野菜づくり、釣り、焙煎、手仕事。
自然の循環の中に身を置く暮らしが、
いちばん体と心を整えてくれると感じ始めたのです。
日常の中で“整える暮らし”へ
体が整い始めると、トレーニングだけではなく
“暮らしそのもの”にも目が向くようになりました。
呼吸や姿勢を整えると、暮らしのリズム、食べ方、眠り、心の温度まで変わっていく。
その延長線上に、“暮らしを整える”という選択が自然と生まれていきました。
自然と生きることは、体と心を整えることだった
風で揺れる木、土の感触、海の匂い、
自然のそばにいる時間は、体がふっと力を抜け
呼吸が深くなる瞬間でもありました。
畑の土、風の音、朝に豆を挽く静けさ。
火を起こすわけでも、サバイバルをしているわけでもありません。
しかし手を動かして暮らす時間の中で、呼吸が深くなる瞬間が増えていきました。
便利さや効率ばかりを追いかけていた頃は、
自分の体の声にさえ、気づけなくなっていました。
「お腹がすいた」
「今日は眠い」
「なんだか心がざわつく」
そんな小さな感覚に気づけるようになったとき、
体と心は、軽くなりはじめました。
頑張るでもなく、我慢するでもなく
ただ“感じられる体”に戻っていく。
それは、器械体操で基礎を積み上げたときと同じように、
“土台が整うと、勝手にできることが増えていく”感覚でした。
暮らしも、体も同じでした。
畑・野菜・釣り・焙煎・手仕事。“循環”という感覚
暮らしの中に、整えるという感覚を増やしたくて、少しずつ行動が変わっていきました。
・畑で土に触れ、種を植え、育つまでを見守ること
・自分で釣った魚を捌き、“命をいただく”という実感を持つこと
・豆を挽いてコーヒーを淹れ、香りと一緒に味わう
・服を繕い、壊れたものを直して、また使い続ける
それらは派手でも完璧でもないけれど——
「つくる → いただく → また還っていく」という循環の中にいる感覚でした。
体も心も、急に整うわけじゃない。
でも、そんな日常の積み重ねの中で
少しずつ呼吸が深くなり、力みがぬけていきました。
土に触れると、思考よりも感覚が動き出す。
海や自然の中に入ると、波のリズムや風に合わせて呼吸が変わる。
こうして少しずつ、“整える暮らし”が日常になっていきました。
整えることは終わりではなく、
今もずっと続いている“プロセスの途中”です。
ここから、私が今どんな想いで発信し、
誰のためにこの仕事を続けているのかを、お話しします。
今、そしてこれから —— “整える”を届け続ける理由
「整えること」は、私にとってゴールではありません。
今も毎日の暮らしの中で続いている、“プロセスそのもの”です。
呼吸が浅くなる日もあるし、気持ちがざわつく夜もある、体調を崩しそうな時もある。
昔の私は、それを無視して「気合で頑張る」しか知りませんでした。
でも今は
「整え直せば、大丈夫」
そう思える自分になりました。
この感覚を、必要な人に届けたいと思っています。
なぜ、私は今も整え続けているのか
私はトレーナーですが、完璧なわけではありません。
呼吸が乱れる日も、体や心が揺れる日もある。
だからこそ整える。
乱れるから整える。
「乱れたらまた整えたらいい」
それが、私が“整える暮らし”を続けている理由です。
根性や我慢で体をねじ伏せるのではなく、
暮らしの中で自然に続けられる整え方。
それは、器械体操で学んだ感覚——
“土台が整えば、技は自然とできる”という教えの延長線にあります。
それが、私の軸です。
専門学校で、“体の仕組みと整える視点”を伝えている
現在、専門学校で
「体の仕組み」「ダイエットの正しい考え方」「姿勢や呼吸」などを教えています。
プロを目指す学生たちにも
“鍛える前に整える” という視点は響きます。
授業の後、学生たちからはこんな声が届きます。
・「今までは、“根性で耐えるしかない”と思っていました」
・「食べることも、美容も、健康も、全部つながっているんですね」
・「呼吸や姿勢を整えるだけで変化があるなんて、正直びっくりしました」
・「ただ痩せる方法じゃなくて、“どうやって生きる体をつくるか”なんだと思いました」
若い世代にも整えるという感覚はしっかり届いている。
その実感が私の背中を押してくれます。
お客様の変化が、「この道でいい」と教えてくれる
サロンに来られる大人の方々からも、こんな声をいただきます。
「毎日つらかった肩こりがなくなりました」
「朝、体が軽いってこういうことなんですね」
「力んでいた自分に気づけるようになりました」
「呼吸って、こんなに気持ちよかったんですね」
「もっと早く知りたかったです」
体が整うと、表情も、選ぶ言葉も変わっていく。
その瞬間を見るたびに、私は思います。
“私はこの道を続けていいんだ” と。
誰に届けたいのか —— 頑張ってきた、大人たちへ
この仕事を続けている一番の理由は、たったひとつ。
“昔の自分みたいに苦しんでいる人を、
・気合と根性でなんとかしようとしている人
・体の声を無視して働き続けている人
・「頑張れない自分は弱い」と責めてしまう人
・変わりたいのに、何から整えればいいかわからない人
そんな人に伝えたいことがあります。
「頑張ることをやめなくていい。
でも、頑張る“前に”整えることもできるよ。」
体を整えることは、未来を整えること
整えることは、今日を気持ちよく生きるためだけのものじゃない。
私は今こう思っています。
・今日の呼吸が整えば、明日の疲れ方が変わる
・今日の食べ方が整えば、数年後の体が変わる
・今の姿勢を整えれば、未来の痛みや不調を防げる
努力でも根性でもなく、
“未来の自分への贈り物”のような行為だと感じています。
これからの私が目指していること
「整える」は特別ではなく、日常の中で育てていける力。
だから私は、これからも——
・京都の小さなサロンからでも、全国へ届く発信を続ける
・レッスンだけでなく、文章・映像・講座など多様な形で伝える
・“正解を教える人”ではなく、“自分で整えられる人を増やす存在”でありたい
体も、暮らしも、未来も。
整えることで、息ができる人が増えてほしい。
それが、私の活動の軸です。
読んでくれたあなたへ
もし今、少しでも——
・このままで良いのかな?
・頑張り続けるのがしんどい
・変わりたいけど、どうすればいいかわからない
そう思っているなら、いきなり走らなくて大丈夫です。
・呼吸をひとつ整えること
・姿勢をほんの少しだけ楽にすること
・夜、1分だけスマホを置いて深呼吸すること
小さな“今”を整えることから、未来は変わります。
最後に
私は特別な人ではありません。
完璧な人でもありません。
呼吸が乱れる日も、落ち込む日もある——ただの人です。
でも「整え直せば、また立てる」と知っている。
それが私の強さであり、生き方です。
あなたも、きっと大丈夫。
ここからまた、整えていけばいい。
あなたのペースで、整えていこう
整えることは、努力や根性の延長ではなく
「いまの自分に戻ってくる行為」だと思っています。
呼吸ひとつ。
姿勢ひとつ。
生活の中でふと立ち止まり、体や心に触れなおす。
その小さな積み重ねが、未来をつくっていきます。
完璧じゃなくていい。
乱れたら、また整えればいい。
そのくり返しの中で、人は少しずつ強く、しなやかになっていく。
私自身も、ずっとその途中です。
一歩踏み出したくなったら
整える生き方や体づくりを、もっと深く知りたいなと思ってくれたら、
こんな形でつながることができます。
- 日常でできる“整えるヒント”
- 呼吸や姿勢のミニ動画
- イベント・講座のお知らせ など
をお届けしています。
※登録だけでも大丈夫。読むペースも、開くタイミングもあなたのままで。
「自分の体は、今どんな状態なんだろう?」
「何から整えたらいいのかわからない」
そう思ったときは、いつでも会いにきてください。
必要になったそのときに選べる場所として、ここに置いておきます。
最後に
がんばることをやめたいわけじゃない。
でも、がんばる前に“整える”という選択肢を持てたら、
人はもっと優しく・強く・美しく生きられると思っています。
あなたのペースで大丈夫。
ここからまた、一緒に整えていきましょう。
コメント