正解がないと動けない子どもたち
最近、強く感じることがある。
臨機応変に動けない。
正解がないと進めない。
間違ってはいけない世界の中で
正解を待って立ち止まる子どもたちが増えている気がする。
授業をしていても
「答えはなんですか?」
「これはダメですか?」
「例えばどんな答えが正解なんですか?」
と何度も聞かれる。
「なぜ?」を考えない、答えだけを求める子どもたち
「なぜ、この答えなのか」には興味がなくて
ただ「答え」を教えてほしい。
理解じゃなく、暗記。
「覚えたらいいんやろ?」という空気。
「自分の言葉で書いていい」と説明しても
「それで間違ってたらあかんやん」
「模範解答がないと正解がわからん」
そんなことを言われる。
模範を出してあげることもあったし、場合によっては出すこともある。
でも、そのときも「例えばどんなものが模範やと思う?」
「この問題の答え(回答)じゃなくて、あなたならどう思う?どうする?」
そう質問をすると、ちゃんと彼女なりの答えを出してくれる。
しかもその答えは、しっかりと回答になっている。
回答を求めるのではなく、質問の仕方を変えるだけで答えが出る。
きっと「自分ごと」として考える経験が少ないんだろう。
自分なりの最適解ではなく「みんなの正解が正解」だと思ってしまっている。
間違えないように。人と違わないように。
一語一句同じじゃないとダメなの?とも言われるが
「覚えなさい」と言ったこともない。
決められたものからしか選べないのか、と思ってしまう。
これもよく聞かれるのだが
「漢字間違いはダメ?」「ひらがなで書いてもいい?」
漢字が分からなければひらがなで書けばいいし、いちいち確認しなくても良いだろう。
これは国語のテストじゃないし、見ているのはそこじゃない。
大人も同じじゃないか
これは、子どもたちだけの話じゃない。
大人でも同じだと思う。
「どう思った?」
「どうしたい?」
と聞いても、答えられない人が多い。
人に合わせるのは本当に上手だ。
でも、自分の考えは出てこない。
「なぜ?」を考えなくても生きてこれた。
むしろ、考えない方が都合が良かったのかもしれない。
言うことを聞く奴隷を育てるような社会
でも、私はそれが気持ち悪いと思う。
「なぜ?」を問わない社会。
「なぜ?」を考えなくていい教育。
間違えないように、正解だけを覚えさせる。
言われたことを言われた通りにやる。
従順で、管理しやすい。
それって、言うことを聞く奴隷を育てているみたいだ。
失敗は悪いことじゃない。
そもそも、みんな違うもの。
おかしいことはおかしいと言える。
自分の意見を持つ。
自分の選択に責任を持つ。
そういう当たり前の力を奪ってまで、何を育てているんだろう。
ルールから外れるのが怖い
タイムスケジュールをざっと説明すると
ずれると「なんで?」と聞かれる。
進行具合で前後するのは当たり前のはずなのに。
でもそれが許されない。
「休憩は10分ですよね?」と確認される。
ずれるなら「なぜずれるのか」という説明が必要になる。
ルールから外れるのは、いけないこと。
そこにものすごく縛られているのを感じる。
ルールは大事だ。
でもルールは目的じゃない。
みんなで気持ちよく進めるための手段のはず。
でも「ルール=正解」になると、状況を読む力が育たない。
「”今”どうすればいいか」を自分で考えなくなる。
「私」が最優先の会話
それは別の場面でも見える。
今Aちゃんが質問しているのに
BはAを無視して「先生」と話しかけてくる。
いや、話しかけるというより勝手に話し始める。
状況を見て?
それが分からないらしい。
「私」が最優先。
結局「今Aちゃんと話しているから、その後ね」と私が区切らないといけない。
まるで小さい子どもみたいだと思ってしまう。
でも、もしかしたら本当に
「小さい子ども」みたいな経験しかしてこなかったのかもしれない。
大人が全部順番を決めて、ルールを教えて、手を引いて、
「自分で考えなくてもいい」ように育てられた。
だから、状況を読んで自分で譲るとか、
待つとか、
周りを見るとか、
そういう経験が圧倒的に足りなかったんじゃないか。
電車でも同じことが起きている
これは教室だけの話じゃない。
電車でも同じだと聞いた。
頻繁に乗る人から、こんな話を聞いた。
人が降りないと入れないのに
降りてくる人を待たずに乗ろうとする人が増えたそうだ。
ほんの少し詰めたらもう一人座れるのに、詰めようとしない。
荷物を座席に置いて他の人が座れないようにする。
小さなことに見えるかもしれない。
でも「周りを見ない」「相手を想像しない」「自分だけを最優先にする」。
そういう行動が当たり前になっていくのが、怖いと思う。
社会って、こうやってだんだん分断されていくんじゃないかと思う。
そしてそれは、誰かが急にそうなったわけじゃない。
「自分で考えなくてもいい」「言われたことだけ守ればいい」
そういう育て方、教育、社会の空気の積み重ねの結果なんじゃないか。
子育てという場面での怖さ
自分の頭で考えられない、選択できない、責任を持てない人が、
子どもを育てたらどうなるんだろう? とも思う。
その時になって初めて考えるのかもしれない。
実際に子どもを育てるようになって、
初めて考えるようになる人だってたくさんいる。
「どうしたらいい?」「どう育てれば正解?」って。
育児って初めてのことだらけで、分からないことだらけで、正解なんてない。
本当は自分の頭で考えるしかないのが子育てなのではないだろうか。
ルールに頼り、ラベルを貼る安心
「自分で決めるのが怖いから」
社会のルールに則る。
マニュアル通りにやる。
そして、ルールから外れる子が出てきたら
「精神病」
「○○症」
と名前をつけてラベルを貼る。
「私の子育ては間違っていない」と安心するために。
自分が考えなくても済むようにするために。
でもそれって結局
また「考えない人」を育てているだけじゃないだろうか。
考えられない人を増やし続けるだけじゃないだろうか。
ラベルを貼られた本人の責任は?
そして思う。
ラベルを貼った大人や社会の責任は大きい。
でも、貼られた本人も、そのラベルに甘えてはいないだろうか。
「私は病気だから」
「〇〇症だから」
「わたしは〇〇だから仕方ない、できない」
だから
「あなたがどうにかして」。
「私は悪くない」。
そんな風に、自分で考えること、
自分の意思で生きることを放棄してはいないだろうか。
ラベルをもらって、免罪符のように使ってしまうことで
自分の人生を自分で選ぶ責任を手放してはいないだろうか。
それって、ある意味「平和ボケ」しているようにも思う。
誰かが決めた正解やルールに従っていれば、間違えないし、責められない。
でもそれは、考えなくていい、選ばなくていい、自分の頭で生きなくていいということだ。
学校はルールを教え、社会は考えろと言う
それにしても思う。
学校を出るまでは、ずっとルールでがんじがらめだ。
「間違えないように」
「正解を出すように」
「決められたことを守るように」。
ずっとそう教えてきたのに
社会に出た途端、いきなり「自分で考えろ」「臨機応変に動け」って要求する。
結構酷じゃないだろうか。
「考えるな」と育てておいて
「考えない奴は使えない」と責める。
その矛盾を大人も社会もずっと放置してきた。
そこにも違和感を感じる。
管理しやすい社会をつくることへの抵抗
そうやって、どんどん管理しやすい社会ができあがっていく。
言うことを聞く人を増やす。
おかしいことをおかしいと言えない社会を当たり前にする。
そんな社会には、私はしたくない。
だから私は、問い続けたい。
「どう思う?」
「あなたはどうしたい?」
すぐに答えが出なくてもいい。
間違ってもいい。
答えを用意できなくても、一緒に考えればいい。
でも、その問いすらない社会は、私は嫌だ。
気持ち悪い。
だから、私は聞き続ける大人でいたい。
正解を教えるのではなく、考える力を育てたい
だからこそ思う。
「正解」を教えるのではなく
「生きていくために考える力」を育てることが必要なんじゃないか。
お腹がすいた。
そのときに
「魚を釣ってあげる」
「野菜を育ててあげる」
「食事を作って出してあげる」
のではなく
「魚の釣り方を教える」
「野菜の育て方を教える」
「どうやって食事を作るのかを教える」
そういうことが本来、教育で必要なんじゃないかと思う。
生きていくための力を、自分で手に入れる力を渡すこと。
それが、私が大人としてやりたいことだ。
正解なんか分からんけど、
でも、一緒に考え続けられる大人でいたいと思う。
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