何も思っていないなら、それでいい。

発信をしていると
少しズレた方向からのコメントをもらうことがある。

「◯◯な人もいますよ?」
「それは障害のある人への配慮が足りないのでは?」
「変えたくても変えられない人もいるんですよ?」

言っていること自体間違っているとは思わない。

そうだね、
そういう人もいるよね、と思う。

でも正直に言うと違和感しかない。

すべての人に配慮して話すことはできない

みんな環境も状況も、何もかも違う。
なのにすべての人に配慮しながら話すことなんてできない。

「これはこんな人に向けて話しています」
「この場合は例外です」
「こういう人もいます」

そんな注意書きをいちいち入れていたら本題に入る前に終わってしまう。
私が感じている違和感の理由は、とてもシンプル。

私は、そこに向かって話していない。

「私の話じゃなかった」で終わる話

何も思っていない人。
当てはまらない人。
関係ないと感じる人。

そういう人は本来ならこうなる。
  「あ、私の話じゃなかった」

それで終わる話だ。
それなのにわざわざ反応してくる人がいる。

自己説明ラベルが思考を止めるとき

その多くは投稿の文脈や意図ではなく
自分の痛みや立場を、そこに重ねてくる。
ここでよく使われるのが、いわゆる自己説明ラベルだ。

「◯◯だからできない」
「◯◯な環境で育ったから仕方ない」
「◯◯な人もいるんだから配慮してほしい」

確かに、そうかもしれない。

でも同じような環境で育ち、
同じような立場にいながら、
それを自分ごととして引き受けて生きている人もいる。

なぜ、自分だけが特別だと思うのだろう。

弱い立場になりきることで、止まってしまう

最近多いと感じるのが、弱い立場になりきる大人

助けを求めることと、依存することは違う。
弱さを認めることと、何もしない自分を守り続けることも違う。

「私は弱いから」
「私は傷ついているから」

そう言いながら自分では動かず
周りには配慮や理解だけを求める。

その姿はどこか
守られる前提のまま、大人になった状態
のようにも見えることがある。

環境や親のせいにし続けることで、何が残るのか

親が悪い。
環境が悪い。

そう言いたくなる気持ちは分からなくもない。
影響があること自体を否定するつもりもない。

でもそこでいつも引っかかる。
じゃあ、自分に対する責任はどこにいったんだろう?

「親や環境の話をしているんだ」と言われることがある。

でも正直に言うと
その話題を最初に持ち出してたのは、こちらではない。

私は
「今の自分をどう扱うか」
「今の自分をどう引き受けるか」
という話をしているだけ。

話を環境や親にずらして
「だから仕方ない」という着地に持っていく。

それは元の話題から視線を逸らしているだけに見える。

それでも前に進んでいる人たちは、何者なのか

同じような、あるいは
それ以上に厳しい状況に置かれていても

自分の人生を
自分ごととして引き受けて生きている人はいる。

身体に重い障害があっても
社会の中で役割を持ち、発言し、行動している人もいる。

その人たちは「特別だから」なのか?

それとも
乗り越えようとする姿勢を、手放さなかったからなのか。

もし
「環境が悪いから仕方ない」
「親のせいだから動けない」
がすべて許されるなら

誰のせいにもせず
自分で引き受けて前に進んでいる人たちは
一体どういう存在になるんだろう。

「別格」
「例外」
「たまたま強かった人」

そうやって切り分けてしまうのは
逆に、その人たちの努力や選択を軽く扱っているようにも感じる。

もちろんサポートが必要な人もいる。
支える仕事も、
寄り添う役割も、
社会にとって必要だと思っている。

でもそれと
すべての発信が、そこに配慮しなければならない
という話は別だ。

私はその論争をしたいわけじゃない。

「私はつらいんだ」と言われても
それを免罪符に話題をねじ曲げられるなら
正直そこには付き合えない。

誰かのせいにしたいなら、そうすればいい。
でもそれを正当化し続ける在り方には私は共感しない。

私は、

  • 誰のせいにもせず
  • 自分に矢印を向け
  • 小さくても前に進もうとする人

そういう在り方でいたい。

「大変だったね」
「これならできるかな?」
「じゃあこれはどう?」

一生そのやり取りを繰り返す関係性より
自分で立とうとする人と関わりたい

それだけの話だ。

環境のせいにしていいなら何でも言い訳できる

環境のせいにしていいなら正直、何だって言い訳できる。
私自身もそう言おうと思えば理由はいくらでもあった。

突発性難聴。
治療の遅れによるメニエールや低音の難聴。
手足のしびれ、歩行困難。
外反母趾、内反小趾。
円形脱毛症、動悸、変視症。

子どもの頃は怪我も多く
器械体操の練習ができない時期もあった。
怪我で試合に出られなかったこともある。

言い出したら、キリがない。

それでも私は
起きたことから目を背けず
自分ごととして受け入れて進んできた。

辛いことも、
悔しいことも、
自分ではどうしようもないと思うこともあった。

でも、そこからどうするかはいつだって自分次第だった。

「整える」とは自分の人生を引き受けること

環境や出来事は選べなくても
そのあと自分をどう扱うかは、自分で選べる。

自分をどうにかできるのは結局、自分しかいない。

これは
「強くなれ」という話でも、
「我慢しろ」という話でもない。

自分の人生を、他人任せにしない。
ただ、それだけの話。

変わりたいと思う人を、私は応援したい

何も思っていないなら、本当にそれでいい。

でももし心がざわついたなら
それは変わりたいと思っている証かもしれない。

私はそういう人を応援したい。

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前田 みゆき

呼吸・姿勢・体の使い方・食べ方から“根性に頼らない体づくり”を発信。不眠・難聴などの不調から整える生き方に変えました。

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